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歴史・・・

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 松山の検番の歴史は花街の発展と共にあります。明治四年に廃藩置県が実施されるまでは、大街道より西側の二番町・三番町・千舟町は士族の住む屋敷町でしたが、徐々に士族の居住者も減り、明治十年頃にはポツポツと料理屋が開業し始めました。武家屋敷の造作、庭がそのまま料亭として使えた事、近くに大街道という繁華街が通っていた事、一番町の官庁街から近かった事を理由に、二番町・三番町に松山の花柳界は形成されていきました。

 料理屋が現れると、酒宴をする場所を提供する待合が現れ、酒宴に華を添える芸者が現れます。芸者は置屋に所属し、そこで踊りや稽古を教えられました。更に、このいくつもの置屋を束ねる統括的立場として松山検番が誕生します。ですので、お客がまず料理屋に現れますと料理屋は料理の仕出しを頼み、検番に芸者の手配をお願いします。その当時は、料理屋は、自分の所で料理をするということは少なく、貸し座敷の様な役割を果たしていました。しかし、中には自らの店に、腕利きの板前をかかえ本格的な料理を出す料亭と称する料理屋がありました。松山では「梅の屋」「明治楼」「亀乃井」が三大料亭と呼ばれています。特に「梅の屋」は、政治家が集まる舞台として別格であり、唯一、置屋を兼業する事も許されていました。この県内随一の料亭を誇る「梅の屋」に所属していた「お友」姐さんは芸者の中でも別格の中の別格であり、戦後の松山検番を形成する中心人物となります。




 「梅の屋」は元々、士族白川佐々右衛門の屋敷でしたが、白川家から伊予鉄道の創始者、小林信近に渡り、その後、料亭「梅の屋」となりました。政友会、民政党の政治活動が華々しかった頃は、ここが政友会の溜り場であり、事あるごとに党員たちが集まり、豪遊する一方、戦術を練ったといわれています。政友会が「梅の屋」なら、民政党は「明治楼」を本陣としました。「明治楼」は、武家屋敷をそのまま利用したのではなく、明治に入ってから建てられ、百五十人は入れる百畳敷の虎の間を始め、力士も利用した竜の間、鶴、月、雪、花などの各間の他、客が泊まる事が出来た新館も持つ大きな料亭でした。そして、「亀乃井」は、そのどちらにも属さない中立派ということになっていました。

 一方、芸者をかかえる置屋が登場したのは、明治十二年頃で、東雲亭、浪花亭の二軒が最も早かったといわれています。明治十九年には置屋の数が四・五軒に増え、組合の花山舎が設けられました。ちなみに、当時の大工の日当が十六銭で、芸者の花代は一時間五十銭でした。夜には、検番から料亭へ向けて、芸者の引き合い状況を一覧表にした「あきがみ」を回し、それを見ながらの御指名となりました。料亭街が形づくられていくにつれ、置屋と芸者の数が増え、昭和六年には松山検番に加入の置屋が二十一軒にも及びました。検番は市内の松山検番以外にも、道後に上検番と下検番の二つの検番が、そして三津にも三津検番があり、大正〜昭和初期の全盛期には、県内で検番が約四十軒、置屋が四百三十九軒、芸妓が千三百五十人いたとも伝えられています。

 道後の場合、上検番は松ヶ枝町の入口あたり、下検番は道後温泉本館のやや南西に位置し、それぞれの検番には百人を超える芸者が登録されており、付近には芸者を抱える置屋が多数散らばっていました。置屋の中でも椿湯の隣にあった桔梗家は、一流芸者を抱える置屋として広く知られており、当時は、道後温泉も夜通し営業をしていた為、温泉につかっていたら松ヶ枝町で遊ぶ太鼓の音が聞こえてくると言われたほど、道後周辺は不夜城のごとく賑わっていました。

 また、明治後期から昭和初期の新聞には、芸者達が写真入で紹介されており、明治三十六年から毎月のように新聞で、検番ごとに花代売上高ベスト一〇も紹介されていました。芸者達は美しさと共に、芸にも磨きをかけ、唄、踊り、三味線などの厳しい稽古を積み、礼儀や作法などの指導も受けました。中には、大竹席の「米千代」姐さんのように、文学に精通した文学芸者と呼ばれる人もいましたが、いずれにせよ、彼女達は料亭街の花であると同時に、厳しいしきたりの中でも生きていました。





 しかし、そんな松山の花柳界も太平洋戦争によって崩れていきます。昭和十八年には「遊興飲食税法」が改正されて税率が大幅に引き上げられ、料理屋や飲食店の廃業が相次ぎます。また、昭和十九年には「決戦非常措置要綱」に基づき、県内の高級料亭や置屋、芸者の多くに休業命令が出され、昭和二十年には、松山市に百二十八機にものぼるB-29が大空襲を行い、松山城をとりまく市街地は炎に包まれ、逃げまどう市民によって街は大混乱に陥りました。街は焦土と化し、被災者は市民全体の53%に当たる六万二千二百人にも達したといわれています。当然の事ながら、芸者衆も散り散りになり、検番は一度、消滅してしまいます。



 再び松山の花柳界に灯がともるのは、戦後の進駐軍将校の接待宴によるものでした。昭和二十一年、「お友」姐さん、「一平」姐さん、「米千代」姐さん、「桃之助」姐さんたちにより「松山検番」は復活します。
その時は、料亭「桃太楼」の横に空き家があった為、そこを借りて、「お友」姐さんを住まわせ、事務員さんを二人雇い、松山検番としました。正確には、戦後の芸妓置屋制度の廃止により、検番という名前が付けられず、「松実会(多くの文献では松美会となっておりますが再検証の結果、松実会の名称が正確なようです)」という名前にしました。また、農林大臣が検番許可証を交付しており、当時のお金で五万円を出して、土建会社の社長からその許可証を買い取ったそうです。

 数人だった芸者は六十人規模にまで増え、「松山検番」はおおいに発展します。戦後は、検番も松山検番だけとなっていましたが、誰もが検番に入れたわけでもなく、また検番の中でもお座敷に声が掛かる芸者とそうでない者が生まれ、昭和三十五年頃には、松山検番から出た「小春」姐さんらにより一度、道後検番が作られています。道後の検番は松山検番より花代を下げて営業を始めたところ、道後界隈の発展により、好調な滑り出しをみせたものの、その後花代を上げると、客が離れ、花代を下げると、客が戻ってくるというような事を何回か繰り返した後、規模の縮小などにより、松山検番に再統合され現在に至っています。



 戦後は、置屋に住み込んで芸を磨くというスタイルも消え、検番に属する者同士による芸の継承が中心となっていきましたが、かつて、一つの置屋には、五〜十人の芸者がいました。彼女たちの中には借金(前借)のかたに十歳前後から、お姐さんの使いをしたり、衣裳をたたんだり、掃除洗濯の手伝いする「仕込みさん」からはじまり、おかあさんと呼ばれるおかみさんやお姐さんに、芸事やお座敷での礼儀作法、花町の約束事などを厳しく仕込まれていくものもいたようです。やがて半玉になり、十七・八歳になると、衿替えといって旦那を持ち、一本立ちした芸妓になっていきました。ただ、舞妓や芸者になるには試験にパスしなければならず、踊りや三味線の師匠、置屋の姐さんたち、そしてなぜか警察署長がズラリと並ぶ前でテストを行ったといわれます。

また、日頃から真っ白のねりおしろいを塗り、裾をひいた着物を着て、左づまをとっていました。半玉は京びん、芸者になると島田を結います。芸者につきものなのは人力車で、近くのお座敷でも人力車に乗って行ったそうです。乗らない時は、仕込みさんが三味線を下げて姐さんの後ろからついて回りました。その一方で、道後公園では、寒稽古と称しては、のどが破れるほど大声を出して修行を行い、手から血を流しながら鼓の稽古をし、みな「芸一筋」であったといわれます。この「芸一筋」の心意気は今も松山検番に伝わっています。


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