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お座敷へのご案内・・・

>> 代表的なお座付きとは・・・

■ 伊予節
伊予の松山 名物名所
三津の朝市  道後の湯
音に名高き 五色素麺
十六日の初桜
吉田挿桃 小杜若
高井の里の ていれぎや
紫井戸や 片目鮒
薄墨桜や緋の蕪
チョイト 伊予絣



三津の朝市




 元和ニ年(一六一六年)に藩主加藤嘉明の許可を得て、地元の下松屋善左衛門が魚問屋を開いたのに始まります。松山藩指定の魚問屋として発展しましたが、明治に入ると青空市場だった市場に、直径三十三メートの巨大な丸屋根の建物を完成させています。その雄姿は、海を超えた関西一円でも有名になったものです。

道後の湯



 古くは熟田津の湯といわれ、伊予の石湯とも称される道後温泉の事です。その昔、足に傷を負った一羽の白鷺が、岩の間から湧き出ている温泉を見つけ、傷を癒したという「白鷺の伝説」が残る日本最古の湯です。

五色素麺 (ごしきそうめん)



 素麺製造商・長門屋市左右衛門の娘が、参拝のために椿神社に出かけた際に、境内で下駄に美しい五色の糸がからまったのがきっかけで、これを神のお告げと受け取り、五色そうめんづくりを思いついたと言われています。その彩りは評判になり、時の朝廷に献上した所、「九重の雲上より遊糸賞翫美麗五色は唐糸のごとく美し」と賞賛され、一躍全国に有名になりました。

十六日桜 (じゅうろくにちさくら)



 ヤマザクラの早咲きの品種で旧暦の正月十六日頃に開花する事に由来します。十六日桜の古木は山越の龍隠寺にありましたが戦災で焼け、枯れてしまい、今はその実から育てたという木が天徳寺境内裏とロシア人墓地近くの桜ヶ丘団地にあります。

吉田挿桃 (よしださしもも)



 吉田挿桃とは砂丘の風景を歌ったものです。松山市南吉田町吉田浜は、江戸時代、桃の産地でしたが、宝暦年間に高潮があり、桃畑が砂で埋まってしまい、枝が地上に出て桃を挿したように見えた事に由来します。

小杜若 (こかきつばた)



 北条市腰折山に産し、草丈は4月から5月の開花期で十〜十五cm程度と小さいながら、直径四cmほどの美しい青紫色の花を咲かせます。生育地が限られており、個体数も少ないことから国の天然記念物に指定されており、学名を「エヒメアヤメ」といいます。

高井の里のていれぎや



 松山市高井の里に自生するこの地方の特産の水草の事です。清流の底に生え、摂氏15度くらいの冷たい水に適しています。「ていれぎ」は辛味が高く、刺身のツマとして賞味され、古来から松山の特産として有名です。学名は「オオバタネツケバナ」で松山市指定天然記念物です。

紫井戸 (むらさきいど)



 木屋町四丁目、木屋町電停北方400mくらいの住宅群の中にあります。 この井戸の由来は、水が常に紫色に見えて いたという説と、水質がよいので醤油を作った事から、醤油の呼び名「むらさき」の井戸と呼ばれたという説があります。昔はあふれるほどの水量があり、近くの片目鮒の井戸とも水路でつながっており、鮒が行き来していました。

片目鮒 (かためぶな)



 紫井戸の近く五〇mの所に片目鮒のが井戸あります。伝説によると弘法大師が修行中に山越の里を通りかかると一人の農婦がたくさんの鮒を焼いていました。大師があわれに思い、もらいうけて近くの泉に放してやるとすでに片目が焼けていた鮒が生き返ったとされます。

薄墨桜 (うすずみさくら)



 天武天皇が道後温泉にお留りの時、皇后が病気になられ、畏くも病気平癒の勅命を天台宗西法寺が受けました。一寺を挙げて本尊薬師如来に修法祈祷を行ったところ、日ならずして皇后は回復され、喜ばれた天皇は勅使を遣わし、薄墨の綸旨(天皇の詔)と共に一本の桜を賜ったのです。伊予の薄墨桜とはこの事を指します。松山市指定天然記念物であり、学名では「イヨウスズミ」といいます。

緋の蕪 (ひのかぶら)

 外側は赤紫色、中は白色をした蕪で、この蕪を柑橘酢に漬けると、鮮やかな緋色に変わります。緋の蕪漬は、愛媛県松山地方の冬の風物詩であり、正月料理には欠かせない一品です。

伊予絣(いよかすり)

 久留米絣、備後絣と並ぶ三大絣の一つです。愛媛県温泉郡垣生村今出生まれの鍵谷カナが、藁葺き屋根の葺き替えの時に、押し竹の縄に括られた部分の藁は白く、陽に当たっていた藁は褐色に変わり、綺麗な模様が出来ていたことをヒントに考案されたのが伊予絣です。


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>> 代表的なお座敷遊びとは・・・

■ 野球拳
 野球拳は一九二四年、伊予鉄野球部が高松市で高商クラブとの野球の試合に敗れ、試合後、旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会において、昼の敵を取るべく披露した演技が始まりです。昼の試合には負けたものの、夜の勝負には勝ち、一行は揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭で披露して以降、宴会芸の定番となりました。本来は、じゃんけんで負けたら脱衣するというようなルールは無く、三人一組による団体戦で、チームの代表が音楽に合わせてじゃんけんをし、負けた方のチームが次の人と変わっていき、三アウトになるまで続けます。



野球するなら こういう具合にしやしゃんせ〜 
投げたら〜こう打って 打ったなら、こう受けて〜
ランナーになったら、エッサッサー
アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ
あいこでしょい
(勝負の決まるまでつづけます)
(勝負が決まると)
へぼのけ、へぼのけ、おかわりこい


■ 金毘羅船々
 曲自体は、香川県の民謡で幕末から明治時代に流行したものです。もとは金毘羅参りの道中、金毘羅船の起点である大阪港から唄い出されたとも言われています。その曲に合わせて、二人が決められた動作をし、間違えた方が負けとなります。曲自体も徐々にスピードを上げていくことで間違いを誘発させます。



金比羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュ シュ
まわれば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅 大権現


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